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ありがとう、軽音。

  • 執筆者の写真: あんたく
    あんたく
  • 2023年7月11日
  • 読了時間: 16分

受験やだ

先日演劇部の最後の大会を終えました。あんたくです。会場の雰囲気が良くみんな楽しそうに笑ってくれていたため、アドリブを入れまくってしまいました。とても楽しかった分、喪失感がすごいです。


演劇部最後の自主公演は期末考査後の放課後、7月19日に行う予定です。この記事を読んだ方は必ず講堂まで足を運ぶように。何がとはいいませんが、私の軽音部としての経験値を存分に発揮する場面がある…かもですよ?


軽音部としての活動も、残りの発表の場が片手で数えられるレベルにまで減ってしまいました。全ては受験とかいうシステムのせいですね。滅びろ。


正直勉強は好きなんでそれを強制されることに関しては特に文句はないです。何が嫌ってみんなの脳が受験に支配されることですね。周りのみんながまるで綱渡りのごとく自分の周りの物事に整理をつけ、ほっそい勉強というロープをバランスをとりながら渡る姿を見ていると、なんだか逆にこちらが不安になってしまいます。


喜々としてやっているのならともかく、おそらく多くの人の場合は不安に掻き立てられて机に向かっているのだと思います。学力なんてアイデンティティを形成するものの一部に過ぎないはずなのに。


楽しくない、面白くない勉強なんて勉強でもなんでもないと私は思います。学問など所詮ヒトが後発的に生み出した一種の文化に過ぎません。その人の素質を測る上で便利なツールではありますが、学生にとっちゃその程度です。しなさ過ぎもよく無いですが、無理してまでするもんでもないと思います。


私の所属する3年G組は、朝から教室で勉強してる人間が大勢います。正直教室入るのめっちゃ怖いです。でもそんなクラスでも、休み時間や昼休みは1年や2年の時と同じような、楽しそうな話し声が聞こえてくるのです。その声を聞くととても安心します。


この安心は決して「周りが勉強してないから自分も勉強しなくてオッケー☆」って感じの安直で薄っぺらい感情から来ているわけではありません。「こんな時期から根詰めて勉強しまくってたら精神壊すよな」という確認からです。


あえて受験というイベントに擦り寄って思考するならば、今の時期は「わからない」を潰す時期、すなわち勉強を「楽しい」と思えるようになるための時期だと思います。今の段階から既に勉強に対し悲観的になっていてはいけないのです。


この時期の人間は不安のはけ口を自分の努力以外に求めます。すなわち、努力を阻害すると思われる要因ー部活、趣味などーを切り捨てようとします。効果的でないとはいいませんが、その選択は本当に自分が納得したものであると言い切れますか?言い換えればその要因は、困った自分の心の拠り所です。


この後のメインテーマとなりますが、私は人に左右され生きている面が強いです。ですから、自分の勉強の不安と同じくらい、周りの人たちの精神状態がとても心配なのです。「合格」の二文字のためだけに心を病むようなことなどあってほしくないのです。


とはいえ、ヒトは己の意志以外の様々な外的要因に左右され生きている特異な生き物です。大雑把な理解であることは重々承知ですが、「〇〇しななきゃ死ぬ」という選択が他の生物に比べ極端に少ないため、むしろヒトの一生には他の存在が介入する余裕のようなものが存在するのです。そう考えると、ある意味で受験に熱中するというのは必然なのかもしれません。この先の人生など色々なことを考え、意欲的にそういった選択をできているという事実に対して僕は尊敬の念すら浮かべてしまいます。私の勉強など、確固たる目的も何もない空虚なものに過ぎませんから。


でもせめてこの時期は、何かと並行しながら勉強することに慣れてほしいなと思います。いざという時、それが自分の心を救う要因になるかもしれない。友達と話す時間でも、趣味に費やす時間でも、もちろん部活だっていい。この記事を読んだ3年生へ、私から一生のお願いです。あなたが苦しむ姿を、私は見たくないのです。


 

どうしてピアノを弾くの?

軽い繋ぎのつもりがめちゃめちゃ熱く語ってしまいました。ごめんなさい。本日の本題はここではないのです。


先日あめさんが「最後の部ログになるかもしれない」などと仰せになったことに私は焦りと不安を感じてしまいました。「残り少ない記事数で何を書くべきだろう?」と。やりたいこと、いっぱいあります。私の大好きなあいみょんの曲めっちゃ紹介する記事とか、私の人生を支えるポケモンのアニメの良曲を紹介しまくる記事とか。でもやっぱり、「軽音部への感謝」は外せないなと、そう思ったわけです。


私は軽音部に入ったことで、音楽が心から好きだと思えるようになりました。今私が音楽に対して抱いている感情は、小学生の時のものとも、中学生の時のものとも、全く違うものなのです。軽音という場であるからこそ感じられた、音楽の良さ。それを説明するために、まずは私の今までの音楽観の変遷を述べさせてください。


私は3歳からピアノを習っています。おそらくそこに私の意志は介入してません。弾き初めの時期がどんな感じかとかマジで覚えてません。「ある日ふっと気づくと自分が起きた直後だった。朝ごはんを食べ、幼稚園に行き、ピアノを弾くという行動を一切の疑問なくこなしていた。」というのが私の一番古い記憶ですので、本当にピアノに対する感情は一切無かったのでしょうね。


ある程度成長して、親からピアノを習い始めた経緯を聞きました。「他の習い事※は(僕)がやりたいといったからやらせてるが、ピアノだけは私(親)が習っていたからやらせている。嫌ならやめてもいい」だそうです。

※当時はZ会をとり地元の塾に通ってました


(小1小2の思考なんざ「己の意志」に含まれるわけねーだろ)と内心思っていたのは置いといて、このセリフからは「ピアノをやめるという選択肢」が私に存在しているように感じられます。でも、正直そんな選択肢は微塵も選ぶ余地がありませんでした。ピアノが楽しかったからでしょうか?いいえ、全くの逆です。


当時は本当にピアノ嫌いでした。理由はシンプル。親が怖いからです。キレて叫ぶ声が本当に怖かった。今の自分が分析すれば、私が必要以上に速く弾いたせいでミスをしただとか、同じ場所の繰り返しの練習が段々と雑になっていっただとか、まぁ言ってしまえば僕の行動が原因ではあるのですが。とはいえ、いくら自分が悪いと理解していても大声を出されては萎縮してしまいます。


親と私の行動は不幸にもガッチリと噛み合って負のスパイラルを産んでしまいました。当時の私はこの地獄のような時間から逃れるために、「速く弾いて早く終わらせる」という行動を取りがちでした。冷静に考えれば、間違いを指摘されるリスクを極限まで減らしてゆっくり弾くのが最善手なのですが。そこまで考えが至らず曲を速く弾き、ミスを生み、怒鳴られ、嫌になり、速く弾き……という悪魔のような連鎖が起きてしまったのです。


そんな経験から「音楽に造詣の深い親はピアノの練習その他諸々で人格が豹変する」と長いこと思ってました。某4人組バンドの練習の休憩中にそのことについて尋ねてみたところ、1名が大きく首を縦に振り、2名が「何いってんだこいつ」って顔してました。音楽の練習中に怒られないの羨ましいなって思います。


まぁそういうわけで、「親=怖い」という理解が第一にあった自分にとって、ピアノをやめるなど無理な話だったのです。ピアノの練習後に許可される30分間のゲームタイムが当時の自分にとってピアノを弾く唯一の利点だったと言っても過言ではありません。 


 

「みんなのため」に弾くピアノ

とはいえ、音楽に対する思いはこんな暗いものばかりでもありませんでした。転機が訪れたのは小学一年生、合唱の「伴奏」という概念を知った時です。


なんか面白そーって思って応募して、楽譜を渡され、親と一緒に練習してオーディションに望むとなんと合格。その後自分の伴奏のもとで、教室で合唱の練習をする日々が始まりました。


これが楽しい。一人だけ全く違う動きをして非常に目立ってるような、でもむしろ影に隠れてみんなを支えているような、どっちともとれない不思議な感覚。ピアノと歌声が重なって始めて生まれるハーモニー。ピアノは一人で弾くものだと思っていた自分にとって、非常に刺激的で面白い体験でした。


そしてなんといっても嬉しかったのが、色んな人から褒められること。「ピアノが弾けるのすごい!」という趣旨の褒め言葉をクラスメイトや先生からたくさん言ってもらいました。初めてピアノ「そのもの」を好きに思えたのは間違いなくこの時だと思います。


そのまま調子に乗り、6年間合唱祭の伴奏を務めました。市内の音楽発表会でも伴奏してます。5、6年では校歌の伴奏を担当することも多々あり、卒業式では今でも連絡をとっている小学校一番の友達の指揮のもとで校歌の伴奏をしました。僕の小学校の思い出を語る上で絶対外せない出来事です。


さて、お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、ここで私が楽しいと感じているのは「みんなのため」に弾くピアノです。伴奏をしたからといって家での練習に何か変化があるわけではなく、「自分のため」の練習は嫌嫌やってました。


リースマンってご存知ですか?倫政の勉強中にその存在を知ったのですが、大衆に典型的な社会的性格を類型にまとめたアメリカの社会学者です。彼は自身の著書『孤独な群衆』で、近年(戦後をさす)登場し広まりつつある性格として「他人指向型」という分類を提示しています。


山川の一問一答で初めてこのワードを見たとき、血ヘド吐いてぶっ倒れるかと思いました。解説を見て卒倒するかと思いました。「俺じゃねえか」と。



こちらのサイトを参考にしていただければどのような考え方なのかは伝わると思います。すごく端的に説明すれば、「行動の評価軸が他人にある」ということです。


「クラスメイトのために伴奏をし、褒められるためにピアノを弾く」という行動。これってまさに評価軸が他人に移っていますよね。リースマンは社会構造の変化に伴う社会的性格の変化そのものについて述べているため、その善悪についてまでは言及していないようです(原文を読んでいないため話半分程度で聞いてください)が、評価を他人に依存している状況は決して「安定」とはいえません。自分と他人は本質的に異なる存在ですからね。


事実、私が感じていたある種の「快楽」は、中学校で崩壊します。私よりピアノできる人間がゴロゴロいたからです。家から学校が遠かったこともあり、ピアノの練習をする機会は自然と減り、そしてなくなりました。合唱祭のときに各パートの音をとったり、音楽の授業でちょろちょろ弾いたくらいでしょうか。音楽、とりわけピアノに対するモチベーションは、ないとはいいませんが、小学生の時よりも明らかに低いものでした。(そんな自分でも褒めてくれるのが千葉中生の良いところなんだけどな←惚気)


と、ここまでに書き連ねたことはあくまで一例ですが、みなさんにも多かれ少なかれこういった気持ちがあるんじゃないかと私は睨んでいます。宗教、国家、あるいは家族といった超越的存在の支配から解放された現代人は、むしろその心の拠り所を探しあぐねているのではないかと。そんな人々が、他人からの承認を得られることで自己の価値を確認する。当然の行為ではないでしょうか。


私は人間にそのような一面があってもいいのかなと思います。今の時代、一人じゃ生きられないわけですから、他人の目を気にしてしまうのは当然です。人から認められたいのは当然です。軽音一つとっても、演奏後にいっぱい褒められたほうが嬉しいに決まってますよね?


でも、それだけじゃだめなんだと思います。自分で自分のしていることに自身をもてないと、置かれている環境や状況によって自己評価がぐわんぐわんと変わって安定しない。疲れちゃいますよね。生物でいったら恒常性(ホメオスタシス)ですよ。生物を生物たらしめる必須条件です。


そう、軽音という活動に身を投じたことで、僕は自分の演奏に「自分で」自身を持てるように、そして演奏がしたいと「自分で」思えるようになったのです。


 

軽音が教えてくれたこと

コロナウイルスで中3の学校生活がかき乱される中、私はあいみょんとポケモンのおかげで音楽に目覚めます。(詳細は次回の記事で)そのまま高校に入学。フォークソング部の存在を知ります。


やってみたい!!って思いました。希望パートは過去に何度か歌を褒められた経験からボーカル。軽いものです。キーボードはどうしたんだと聞かれそうですが、一応弾けるとは言ってましたよ。ボーカル第一志望でしたが。


まあなんやかんやあってNexus-blessが誕生し、さるびあ伯爵が生まれ、fortettoができるわけです。楽しいのは楽しいのですが、冷静になって分析してみると、その「楽しさ」は今まで感じたことのあるとのとは少し違うということに気付かされます。


軽音は、私にとって初めて「自分から『やりたい!』と心から思って始めたこと」であることに気づいたのです。知らず知らずのうちに、僕は音楽の前で素直な気持ちになることができていたのです。


しかも、その気持ちは正のスパイラルを起こしています。自分たちの演奏が褒められ、もっと上手くなりたいと思い、必死に練習すると、自分に能力が身についていることが伝わり、自分に自身が持てるようになり、次の演奏も上手く行き…というように。結果として私は軽音の前で常に前向きに行動することができているということにも気が付きました。


軽音には、お客さんがいます。自分の声に合わせて手を振り、叩き、笑顔で、時には真剣に自分のものでない演奏を見てくれる存在。決して奴隷ではありません。僕たちの演奏を見たいと思って来てくれているのです。


軽音には、成長する自分がいます。歌い続ければ、弾き続ければ、効果が現れるということ。それを、身をもって体感できます。


軽音には、バンドメンバーがいます。それぞれが担う自分にしかできない役割を重ねあって、一つの音楽を作る。一度演奏すれば、何度だってやりたくなってしまいます。「このメンバーでやりたい!」という思いが強くなります。


すごく素敵な環境だと思いませんか?軽音のおかげで、僕は音楽の本当の楽しさを知ることができました。他者評価と自己評価を共に落とし込み、自分から「音楽をやりたい」と思えるようになりました。


もちろん、今までのブログで触れたように思い悩むことも多々ありました。それでも僕の意志でこの活動を続けたいと思えました。こんな経験、今までほとんどしたことがありません。


3年になった今、そんな気づきを噛み締めています。終わってしまうのは寂しいけれど、せめて綺麗に終われるように。僕は僕自身の意志で、そんな目標を達成したいと思います。


愛が爆発してごめんなさい。いざ言語化するとやっぱり書きすぎてしまいましたね。でも本当にそれくらい軽音には感謝しています。僕の人生が潤ったような、そんな気さえしています。


そろそろやめにしようと思います。言いたかったこと全部いえてなんだかスッキリしました。みんな、最後まで頑張ろう!!!


本日はここまで。次回のライターにもご期待あれ。


 

おまけ① 本日の曲紹介

①消えてしまいそうです

 / ずっと真夜中でいいのに。

某音楽記号バンドのメンバーのせいですっかりハマってしまったずとまよからの一曲。ゆるさない。ありがとう。『雨を告げる漂流団地』という映画の主題歌だそうで、個性溢れるアニメ仕様が特徴のMVも映画バージョンになってます。曲を通して描かれるノスタルジックな雰囲気が最高。特に1番終わりの間奏のピアノなんか、電車で聞いてたら窓から遠くを眺めてため息をつきたくなってしまうような響きです。ACAねさんの地声と裏声の使い分けもめちゃめちゃオシャレ。「未完成で 低姿勢で 気持ち任せです」のhiF地声←???で勢いがついたと思ったら「君のSOSは僕のものって(もちろん地声) 思い込んだな(地声)つ(裏声)」とスーッと抜けていく感じ。何回聞いても飽きません。


②爆弾魔 / ヨルシカ

公式MVが無い(⁠´⁠;⁠ω⁠;⁠`⁠)

Spotifyで再生リストを聞き終わった後に流れる「あなたへのおすすめ」で一時期めちゃめちゃヨルシカが流れたことがある(原因はマジで謎)のですが、心身共に疲労しているときにそのことを思い出しよっしゃ聞いたれと3曲聞いたところ3曲ともハマりました。これはその中でも特に好きなやつです。辛く苦しい気持ちを「爆弾」「爆破」という面白い概念に昇華させているのが魅力だなと感じます。「もういやだ。全て爆破してしまえ」という発想自体は単純ですが、それと率直な歌詞が組み合わさることで、主人公の思いの強さがかえって強調されるあたりが非常にグッとくるポイントですね。そしてそんな曲全体の雰囲気を作り上げるのが、ボーカリストsuisさん。彼女の低音は一度聞くと本当に癖になる。この曲はそんな低音をかなり高頻度で楽しめるという点でもおすすめです。


おまけ② 伏線

以下は、ある人物が自らの歩みについて振り返り記した文章の一部である。これについて、以下の問いに答えよ。


コロナ禍における自分は、何かこう直接的な被害を被ったというよりかは、まるで魂を抜かれたような無気力状態であった。確固たる目的もないまま、日が昇り沈むのを待つような生活を送っていた。そんな惰性と生活の中で見る(A)のMVを、いつもとどこか違う感覚で捉えている自分に気づく。恋を始め、①どこか上手くいかない人生に寄り添うような歌の数々に段々と魅力を感じていくようになった。特に、休校一ヶ月前にMVが公開された(B)は、進み続ける時、戻れない自分を見つめ考えるという内容の歌で、②コロナ禍の空虚な自分に刺さる曲であった。当時から③私が一番好きな曲は(C)で、疾走感溢れるメロディーにのせて歌われる主人公の苦悩、それでも歩むことをやめようとしない姿勢が非常に元気づけられるものであると思う。このような④良曲の数々に心を救われた経験から、私は今でも(A)の曲を好いているのである。

(中略)

⑤受験を機に長くポケモンのアニメから離れていた。コロナ禍で暇を持て余す中でふとアニポケの存在を思い出し検索すると、新シリーズ(D)が始まったばかりであることがわかった。話数としては問題ないが見る方法がないとしょげていると、その日のうちに全話の見逃し配信が解禁されるという奇跡がおきる。喜々として再生ボタンをタップし、懐かしい雰囲気に笑顔を浮かべていると、(E)が歌う主題歌⑥「1・2・3」が流れ出し、その曲の良さに思わず息を飲んでしまった。⑦少年アニメらしい底抜けの元気さは、コロナ禍の自分にとって足りない物であった。この歌を一つのきっかけとして私はアニポケにドはまりし、コロナ禍で作成が休止になった際には今までに公開されている話を3〜4周したこともあった。歌の良さ、そして(F)と(G)という同性の友達同士が主人公を務めるという新しい試みからアニメそのものにもハマった私は、⑧「1・2・3」がこの2人によって歌われる日を待ち望んでやまないのであった。


(1)空欄A〜Gにあてはまる言葉を入れよ。

   ただし、FとGは順不同とする。

(2)傍線部①について、その例の一つとして、(A)の最新シングル(20230711時点)の裏面の曲では、何故か不満げな彼女に困ってしまう男の様子が歌われている。この曲名を正式な表記で書け。

(3)傍線部②について、(B)は「空虚な」心を埋めるため、ある時期に再生数、コメント数が急増したことがあった。それはいつか。20字程度で説明せよ。

(4)傍線部③とあるが、筆者は(C)をカラオケで歌うことはあまりないという。その理由を10字程度で説明せよ。

(5)傍線部④について、「良曲の数々」が誕生する理由として考えられる(A)のシンガーソングライターとしての特徴について、50字程度で説明せよ。

(6)傍線部⑤について、筆者が小学6年生(2017年〜2018年)の頃に放送されていたポケモンのアニメのタイトルを正式な表記で書け。

(7)傍線部⑥について、この曲は後に3組が歌い継ぐ。この3組のうち、最もキーが低いペアの名前を正式な表記で書け。

(8)傍線部⑦について、「1・2・3」は対象年代である子供でなくとも心を揺さぶられるような工夫がなされている。その工夫について、歌詞全体の構成について述べながら70字程度で説明せよ。

(9)傍線部⑧のように、ポケモンのアニメでは登場人物がOPテーマやEDテーマを歌うことが多々ある。このうち、「ポケットモンスター XY & Z」における例を一つあげ、正式な表記で書け。

 
 
 

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